湿気の無い晴天が好き

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「立役者」考

東京オリンピック開催が決まり、スピーチで一役買ったパラリンピック選手のメディアへの露出が目立っている。今日のテレビ番組では、「東京オリンピックが決まった立役者」とされていた。たしかに、本人のスピーチやアピール力、受け答えや表情などは画面を通しても十分魅力的にうつる。

 

決して、本人を否定するつもりはない。

 

障がいに負けず、スポーツを通じて生きる希望を持った。東京オリンピックが決まり、自分が出場したいと新たな目標も出来た。それは、もちろん言葉にならないほど素晴らしいことだと思う。

 

私が気がかりなのは、障がい者が障がいに負けず、何かに挑戦することに対する、世間一般の過剰とも思える「素晴らしい」という評価だ。

 

「私は、○○という病気を持っている。病気に負けず、スポーツでオリンピックに出場することで、○○という病気を持つ人に希望を与えたい」

 

繰り替えし言うが、本人を否定しているのではない。

 

なぜ、障がいを持ったら、成功を夢見て、障がいに負けず、何かを目指すことばかり評価されるのだろうか。他人の眼には触れなくても、日常生活で日々「勝負」している人はたくさんいる。オリンピックに出る人を見て「力をもらう」人もいるかもしれない。でも、それは見る人の自由。どれだけ望んでもスポーツをやることが出来ない人もいる。素晴らしいのは、他人の眼から見てわかりやすい状態で、障がいに負けず何かに取り組んでいる人ばかりではない。

 

オリンピック開催には、数え切れない立役者がいるはずだ。障がいを持っている前述の本人も、間違いなく立役者の一人であろう。でも、フォーカスの仕方が不自然に思えてならない。

 

一人一人が何かの立役者である。過剰なフォーカスは、逆に本人の功績を不自然にゆがめてしまうのではないだろうか。

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